金 曜 日 の 食 卓

予 感発 熱新入社員涙の味ストロベリー・レシピ会 議



涙の味
 自分がこんなに泣ける人間なんて、知らなかった。
 さよならの後で、初めて思い知らされた。
 どれほど自分が彼を好きだったのか、に。
 もちろん気付くのが遅すぎた。

 一人帰る部屋で。授業中。電車の中。図書館で。
 涙は時と場合を考えずに、私の頬を濡らした。

 泣いて、たくさんのことを考えて、あふれる痛みに耐えて、エネルギーは相当量消費しているはずなのに、食欲は無かった。
 それどころか空腹感と同時に胃がちくちくしはじめて、食べ物の匂いをかぐと吐き気すらした。
 何か食べなきゃいけないと義務感が生じるばかりで、どんなにおいしそうなものを目にしても、食べようと思う気持ちがまるで生まれてこない。

 2週間が過ぎて、駅でばったり彼と会った。

 同じ学校に通い、同じ電車を使っているのだから、会ったって全然不思議ではなかった。

「元気?」
 彼は遠慮がちに笑って、言った。
 鈍感というか。無神経というか。社交辞令でもよくそんなことが言えるものだ。
 でも彼はそういう人だ。

 私は彼と別れたことを、まだ親友にも話していなかった。
 だけど、彼女が今日、私がやせたことに気付いた。
 毎日顔を合わせている彼女がそう言うのだから、よほど急激にやせたのだと思う。

「あれからごはんが食べられないんだ」
 私は笑って冗談っぽく言ってみた。
「気分悪くて」
 もしもまだ少しでも気持ちが残っているのなら、彼だってちょっとは心配するだろう、と私は淡い期待を抱いていた。そんなことはまったく無意味だと知りながら。

「今日はこれからメシ食いに行くんだけど、行く?」
 まったく意外な言葉だった。
「行っていいの?」
「モチロン。おごってやるよ」

 希望的観測はまるでもたなかった。
 もう既に私たちの間に流れる空気がかつてと微妙に違うことを感じとっていたから。
 それでも、やっぱり誘ってくれたことはうれしかった。

 彼に連れられて、駅の近くのラーメン屋に行った。
 その店に行くのは私は初めてだった。
 彼はラーメンと餃子、私はチャーハンを頼んだ。
 話すのは、試験のこと。授業のこと。友達のこと。
 今までと変わらない。
 全然変わらない。
 変わったのは、私たちの関係のあり方だけ。
 変わったのは、彼の目を直視できない私。

 一番先に、彼の餃子が来た。
「この餃子、食べてみろよ。うまいよ」

 薦められるままに、箸を伸ばした。
 食欲が無かったことも忘れて、無意識に食べていた。

「うまいだろ?」
「うん。おいしい」

 私は、2週間ぶりに、食べ物の味を感じた。
 おいしい。
 もうちょっと食べてみようかな。

 チャーハンが来て、そのにおいを嗅いでも、気分が悪くならないことに気付いた。
 一口。二口。まだ、食べられる。

 少しでも食べられることが、うれしかった。
 けれど、あまりにも体が正直なので、戸惑いもした。

 半分くらい食べたら、もうお腹いっぱいになった。
 それでも近頃の私にしては上出来だ。
「ごちそうさまでした」
「もういいの? もっと食べれば?」
「……お腹いっぱい。ごめんね」
 その時彼はちょっとだけ悲しそうな顔をした。

「ゴハンはちゃんと食べなよ。体を壊したりするなよ」

 一緒にいてくれたら、こんなに食べられるんだよ。
 心の底で、ぽつり、つぶやく。
 彼にこんな風になぐさめられる自分が、彼に依存している自分が、悲しかった。

 みるみる世界が曇る。
 厨房のおじさんも。サラリーマンのおじさんの横顔も。
 手許のチャーハンのお皿も。

 絶対に、泣いてなんかやらない。
 別れる時にそう言った、小さなプライドもとっくに溶けて流れてしまった後。
 だけど、泣き顔なんか彼の記憶に残したくないから、今はぐっとこらえよう。

 口の中に広がる塩っ辛い味を飲みこみながら、私はまた顔を上げた。

(2001.2.10)





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