予 感/ 発 熱/ 新入社員/ 涙の味/ ストロベリー・レシピ/ 会 議
予 感6時を過ぎると、誰もがいつもより特別早く仕事を切り上げてそそくさと――けれどそう悟られないように澄ました顔して――次々に席を立っていった。今夜はクリスマス・イブ。 みんな、仕事が終われば誰かの父親だったり母親だったり、夫や妻や彼や彼女だったりして、待っている相手がいる。 私は彼らを尻目に、黙々とキーボードを叩き続けた。 気付いた時には残っているのは私一人になっていた。 違った、もう一人……向かいのビルに、もう一人、残業している男の人がいた。 何の会社なのかも、どんな人なのかも知らない全くの他人だけど、居残りは一人だけじゃないと思うと、心強い。 9時を過ぎて、ようやく仕事が終わった。 パソコンをシャットダウンさせ、窓際のプリンターの電源を切りに行く。 あの人、まだ終わらないのかな。 先に帰るのは悪い気がして、向こうの様子を見た。 思いがけず、彼は窓の前にこっちを向いて立っていた。 びっくりして目をそらそうとすると、彼が私を指さした。 大きく口を開けて、左手をどんぶりに右の人さし指と中指を箸に見立てて、何かを食べる動作をする。 『ごはん、食べた?』 どうやらそう言っているみたいだ。 私が首を左右に振ると、今度は食べる仕種の後に、私と彼自身とを交互に指す。 『一緒に、食べない?』 私は笑った。 彼も笑う。 私はうなずいて、指でOKを出した。 彼はニッコリ笑って両手の人さし指を下に向ける。 『じゃあ、下で』 私がまた一つうなずくと、彼は親指を立てるポーズをしてくるりと身を翻し、奥へ姿を消した。 私もデスクに戻りバッグとコートを手にして、事務所を出た。 エレベータを待つ間、ふと頭に思い浮かんだメニューがあった。 “鍋焼うどん”。 きっと今夜、外はかなり冷え込んでいる。 家に帰り着くまで暖かくいられるように、熱い鍋焼うどんが食べたい。 ちっともクリスマスっぽくないけどね。 あの人は、どうだろう。 考えてみたら、まだ一言も話したことはないし、顔もまともに見ていないんだった。 エレベータは一階に近付く。 会うのが楽しみなような、怖いような、複雑な気持ちだ。 建物から外に出ると、暖房に慣れきった体に寒さが痛い。 風が刺すように冷たかった。 コートの襟元を直し、マフラーをしっかり巻く。 隣のビルから彼が出てきた。 お互いに姿を見つけて駆け寄りながら、「お疲れ様」と同じ職場の同僚のように声を掛け合う。 「寒いね」 彼は人なつこい笑みを浮かべて、言った。 「鍋焼うどんなんて、どう? うまい店を知ってるんだ」 (2000.10.30) |