雨夜に見る夢



 雨が、降る。

 雨が降ると、いつもなんだか不安な気持ちになる。



「ユミちゃんは大きくなったら何になるの?」

「およめさん!」

 ユミは向日葵のようにまぶしい笑顔を絶やさない。

 彼女のことを嫌いな人はこの世にいない。

 何の取り柄もない私と違って、ユミはなんでもできた。

 逆上がりも、水泳も、算数も、ドッヂボールも、

できないことは何もない。

 人見知りをして引っ込み思案な私と違って、誰とでも友達になれる。

「じゃあリエコちゃんは、何になりたいの?」

「……うーんと、お花屋さん」

 嘘。私は、ユミみたいになりたい。

 なりたかったの。



 この頃、小さい頃の夢をよく見る。

 ユミのことは、長いこと忘れていたはずなのに。

 夢から覚めた時、私は気分が悪くなって少し嘔吐した。

 このところ、胃の調子が悪い。

 夏バテなのだろうか。

 鏡で見る自分の顔は、血色が悪いし、頬のあたりが

少し痩せたような気がした。



「ダイジョウブ?」

 洗面所から戻ると、ベッドで篤が体を起こして座っていた。

「なんでもない」

 私は首を振って、彼の隣に潜り込んだ。

「起こしちゃったね。ごめん」

「お前、どっか悪いんじゃないか?」

 篤の手が頬に触れて、顔をのぞきこむ。

「夏風邪、かな」

 私は篤の胸に耳を押し当てた。

 篤の心音は私を安心させる。

「明日、病院行けよ」

「うん」



 来月、篤と結婚する。

 彼はやさしくて、こんな私でも愛してくれて、とても幸せだ。

 でも幸せであればあるほど、私は怖くなる。

 私は幸せになってはいけない、そんな気がする。



 わずかに開けた窓から雨の音が聞こえてくる。

 そういえばあの日は雨が降った翌日だった。

 私はもう寝息をたてはじめた篤の体にしっかりと腕を巻きつけて、

目を閉じた。



 また、だ。

 目の前でユミが笑っている。

 あの日来ていた彼女のお気に入りの白いワンピースを着て。

「私のこと、嫌いでしょう」

 ユミが微笑みながら私に言った。

 いつもと違うのはこれが思い出ではなく、7つのままのユミが

大人になった今の私に話しかけているということ。

「嫌いなんかじゃ、ない。ユミちゃんに憧れてた。大好きだったよ」

「嘘」

 ユミはふふんと鼻を鳴らして、意地悪な目を私に向けた。

「私がいなくなればいいと思っていたでしょう」



「ユミちゃんは、かわいいわねえ。

ウチのリエコももう少し愛想があればいいんだけど」

 ユミが遊びに来て挨拶をすると、決まって母はそう言ってユミを誉めた。

 私はユミが大好きだった。

 だけど確かに私は、好きという気持ちの裏で、彼女を憎んでいたかもしれない。

 なぜって、彼女がとてもうらやましかったから。

 私は彼女のようにはなれないから。



「あの時、どうして手を離したの」



 眩暈がした。

 ごうごうと激しく流れる水の音が頭の奥によみがえる。

 うねりを上げて襲いかかる濁った波の、ヴィジョン。



「ユミちゃん、待って。待ってよう」

「あはは。早くおいでよ」

 ユミは足が速くて、彼女が駆け出すと私はいつも数メートル

後を追うことになった。

「そっちは行っちゃだめだよ。危ないってお母さんが」

 ユミが川の方へ行くのがわかって、私はあわてて言った。

 大丈夫、見るだけだよ。

 ユミは笑って、そう応えた。



 帰ろう、と怖くなって私は言った。

 前日の雨で水かさの増した川は、大きな音を立てて

あらゆるものを流し尽くそうと貪欲になっていた。

「手をつないでいてあげるよ」

 ユミはそう言って、私と手をつないだ。



 濁った冷たい水の中で私は必死で浮き上がろうともがいた。

 苦しい。息ができない。

 水が、口に入ってくる。

 たくさん、飲み込んだ。

 口だけじゃない。鼻から、耳から、水は私を追い詰める。

 ユミが何か言っていた。

 助けて、とか、離さないで、とかそんなことだったと思う。

 でも私はとにかく必死で、自分の苦しみを何とかしたい一方で、

必死で握り締める彼女の手を振り解いてしまった。



「友達だと思っていたのに」

「ごめんね、ごめん、ユミちゃん」

 私は震えながら、謝った。謝る以外に何も思いつかない。

 私はユミを殺したのだ。それは紛れもない、事実。



「およめさんになるんでしょ」

 ユミは変わらず微笑んで、言った。

「もしユミが、やめろと言ったら、やめる。

そんなことでしか、償うことができないから」

 私の幸せへの戸惑いは、ユミのことを完全に消し去ることが

できずにいたからだったのだ。

 今、それがはっきりとわかった。

「そんなこと、何にもならないよ」

 ユミは鼻で笑った。

「でも、今度は助けてよ」

「どういう意味?」

 ユミの笑顔がひどく冷たく感じた。

 そして彼女は、ゆっくりと私のお腹を指差した。



「おい」

 篤が私を揺り起こした。

 ぐっしょり全身に汗をかいていた。

「悪い夢でも見た? ひどいうなされ方だったよ」

「気持ち悪い……」

「トイレ行くか?」

 私は篤に連れられてトイレで吐いた。

 篤が背中をさすってくれる。

 洗面所で口をゆすいで顔を洗いながら、私はユミの笑顔を

思い出していた。

 あの子の笑顔はどこか残酷だ。

 無邪気に笑いながら蜻蛉の羽をもいだりする子だった。

「リエコ、お前、まさか?」

 篤が私にタオルを手渡しながら、少し期待を込めて

私の表情を伺った。

「……うん。たぶん、そう」

 私はタオルに顔を埋めたまま、頷いた。

 たぶんどころか、きっと、間違いない。

「まじで? やった」

 篤は、喜んでいる。

 結婚したらすぐに子どもが欲しいと言う、子ども好きの彼だ。

 きっといい父親になる。

 私だって、本当は素直に喜びたい。

 だけど、この子は……。



 ユミ、これは私に対する復讐なの?





森崎 るう子ビー玉日記