今夜が約束の百夜目だった。
百夜通えますか、とあの人は言った。
歩いて通うのが条件だった。
土砂降りの雨の夜も、体が飛ばされるほどの風が吹き荒れる夜も、高熱が出た夜も、徒歩であの人の家に向かった。
会えるわけではない。姿も見られない。声すら聞けない。
ただ、訪ねてきた印に、門前に白菊の花を一輪置くだけだ。
毎晩一度も欠かすことなく通いつめ、今夜は100本目の白菊を携えていた。
今夜こそは、あの人に会える。
そう思えば、都からの遠い道程も、凍えるような寒さも、降りかかる冷たい雪も、気にはならなかった。
あの人は美しい人だ。
詠む歌もすばらしい。
一目見られれば死んでもいいほど、手の届かない人。
想いを受けとめてくれるのなら、百夜通うことなどたやすいことだ。
それがまさか、こんなことになろうとは。
あの人の住む里へ入る橋を渡る時、緊張と興奮で他に何も考えられなくなっていた。
昨日まで降り続いた雨は、橋桁を腐らせるのに充分だった。
そんなことすら気付かず、踏み出したその一歩が、全てを無に変えた。
「あっ」
その瞬間、足が橋桁を突き破り、体が宙を舞うのがわかった。
しかし、その時にはもう遅い。
飛沫を上げて凍てつくほど冷たい川の流れに飲みこまれる。
既に手も足も感覚がないほど冷え切っていた体には、もはやどうすることもできなかった。
ただ、最後の菊だけを堅く握りしめていた。
あの人は、哀れと思ってくれるだろうか。
それとも馬鹿だと笑うだろうか。
ほんの少しでもいい。
この身のためにあの人が涙を流してくれるなら、それだけで幸せなのです。
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