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 ** オーケストラの日々 **

 クラシックなんかやる人間は特別な人間だと思われてる気がする。
 黒い服着てかしこまってステージに立つだけで、どえらい人間に見えてしまうらしい。
 だけど、楽器やってる人だって、生身の人間。たまたま楽器をやっているだけの、どこにでもいる人たちだ。
 笑ったり、怒ったり、泣いたり、人生いろいろ、男も女もいろいろ。
 かつて所属した学生オーケストラには、本当にいろんな人たちがいた。
 食べるのに困るほどお金が無かったり、恋に悩んだり、突然思い立って遠くに出かけたり、パチンコとマージャンに明け暮れたり、酔っ払って警察のお世話になったり。
 100人近い人たちが一緒にいたら、それだけで一つのコミュニティ。
 生まれも育ちも住んでいる環境も好みも違う。
 私にとっては、もしかしたら楽器よりもそのことの方が興味深く、魅力的だったのかもしれない。
 世の中はこんな風にたくさんの人が寄り集まって成り立っているってことに初めて気付いたその場所のことを書いてみようと思う。

 る。 2004年6月20日、記

※この物語はフィクションであり、事実とは多少(?)異なります。
 語り手も出てくる人たちも、モデルはいても名前も含めて実在の人物ではありません。



東京都交響楽団の活動を応援します。

→都響ジャーナル 都響
都響の「小中学生のための音楽教室」で楽器の魅力に気付いてしまったかつての子供の一人として、自分にできることがあれば少しでも何かしたいと思う。
両手の中にある大切なものを一つでも多く残すことを考えないと、このまま何もかも失ってしまう。そんな気がする。



 プロローグ

 本番直前のステージ裏の空気が好きだ。
 そんなふうに言うと緊張を知らない人間みたいだけど、そんなことはない。私だってものすごく緊張する。
 むしろ人の百倍くらい緊張している。
 口から心臓を吐き出しそうなくらいに。
 体は小刻みに震える。
 寒くも無いのに鳥肌が立つことすらある。
 掌に染み出す汗を止めようと必死でハンカチを握りしめる。
 頭の中では落ち着くように言い聞かせても、効果なんか見込めない。
 それは私だけでなく周りのみんなも同じで、口ではどうでもいいバカ話をして冗談に笑ったりしていても、そこら中の空気がぴーんと張り詰めていて、まるで零下50度の世界に放り込まれたみたいに全身の皮膚がぴりぴりと痛む感じ。

 いつも私は天井を見上げて、深呼吸をする。
 高い、黒い骨組みしか見えない暗い天井を見上げて、棘のような空気をたっぷり飲み込む。
 下を向いて静かに床に吹きかける。
 数回それを繰り返すと、少しは緊張が緩和される気がする。
 気休めでしかなくても、毎回決まって行う儀式。
 こうして2回目のベルが鳴ってライトの下に足を踏み出す前に覚悟を決めるのだ。
 じたばたしてもしょうがない。
 負けるな、自分。自分を信じていこう。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 オーケストラで過ごした時間を思い出す時、真っ先に頭に浮かぶのはなぜかステージの上での記憶じゃない。
 ステージの上では緊張でほとんど頭が真っ白になっていたから、ということもあるけれど、考えてみればステージに乗っていた時間は一瞬でしかなく、ステージに至るまでの時間、ステージを降りてからの時間の方が圧倒的に長いのだから、当然といえば当然かもしれない。
 暗い舞台裏で出番を待ったこと。練習中の出来事。合宿のこと。数々の音楽以外のイベント。楽団で出会った個性的な人たち。
 なんでもないと思ってたことほど過ぎてみればとてもいとおしい。



 1/100の孤独

メトロノーム
Percussion
【発音】pэ(r)kΛ'∫n、【@】パーカッション、【分節】per・cus・sion
【名-1】 《音楽》打楽器{だがっき}
【名-2】 衝突(音){しょうとつ(おん)}、震動{しんどう}


 いつものことながら、打楽器は孤独な楽器だと思う。

 シンバルやティンパニ、スネアドラムは自分でも確かにウルサイと思うし、そういう楽器の練習をする時は人に迷惑をかけないように気を使わなくてはいけないと自戒している。
 今日はパート練習の日でパート毎に場所を確保して練習しているのだが、部屋数が足りなくて他の楽器の部屋の片隅を間借りした。
 チェロとフルートがいる部屋だったため、遠慮して基礎打ち(ゴムを貼った板をドラムスティックで叩く地味な基礎練習)をしていた。楽器を使わないんだから実におとなしいものだったのに、板を刻む音でメトロノームに集中できないという理由で立ち退きを迫られたのだった。
 確かにごもっともな意見だし、常に謙虚であらねばならない、とは思うものの、なんだか理不尽な気もしないでもない。

 仕方が無いので校舎の外側の非常階段の前を陣取り、生い茂るケヤキの葉に雨の雫がそぼ降る様を眺めながら、メトロノームに合わせて16分音符を刻む練習をはじめたところだ。
 すっきり晴れた日にやさしい風に吹かれながら,、だったらいいけれど、このところの長雨には飽きたし、じめじめしたぬるい空気じゃやる気も萎えそう。

 他のメンバーは、といえば、それぞれ思い思いの場所で、ばらばらの方角を見て、同じように一心に板を叩いている。
 こういうのって他の楽器の人からは異常に見えるらしくて、「楽しいの?」ってよく真剣に尋ねられる。こっちからするとつまらないと思ったことがないので、その質問自体が謎なんだけど。
 今日はもっと速いテンポに挑戦、とか、逆にめちゃめちゃ遅いテンポにどれだけ正確に合わせられるか、とか、複雑なリズムに挑む、とか、やることはいろいろあって、自分に課した勝手な目標を一つずつクリアできるのがうれしかったりする。
 自分が疑問に思ったことがないので打楽器の他のメンバーにきいてみたこともないけど、たぶんみんな同じだと思う。
 こんなことですら、他の楽器からはなかなか理解を得られない。

 弦でも木管でも金管でもなく、どこにも属しない、独立したパート。
 しかもその小さなグループの中でも同じ曲中でそれぞれが違う楽器を請け負い(例外的な曲はあるものの)、違う動きをしている。
 ちょうどこの練習風景が打楽器というパートの全てを表していると言える。
 なんて孤独な私たち。

 孤独、とは言っても、私たちはこのパートに満足しているし、他の楽器からの無理解にも甘んじる。
 だって100人もいるオーケストラの中でオンリーワンの存在なんておいしすぎるもんね。

 メトロノームが刻むテンポを聴くうちに突然思いついて、
「世界に一つだーけーのはーなー、一人ひとーり違う種をーもつ」
と私が歌いながら裏打ちをはじめたので、みんなが手を止めて振り返った。
「急に、どうしたの?」
 おかしそうに果歩ちゃんが笑った。
「その花を咲かせることだーけに」
「一生懸命になればいいー」
 思い思いのリズムでスティックを叩きながら、2年生のヤマちゃんも水野さんも歌いだして、果歩ちゃんもすぐに加わった。
 16分、8分、シンコペーション、なんでもあり。
「NO.1にならなくてもいい」
「もともと特別なOnly one」
「いえーぃ」
 ほーらね。別々のリズム叩いててもちゃんと一つのものになるでしょ。

「なんか楽しそうだね」
 濡れた傘を片手に楽器ケースを背負って階段を上ってきたバイオリンの高津先輩が笑った。
「こんにちはー」
「楽しいですよー」
 私たちはにこにこして胸をはり、ひとしきり笑った後で、再びそれぞれの課題に戻っていった。



 哀愁のメロディ

オーボエ
Oboe
【発音】o'ubou、【@】オーボー、オウボウ、【変化】《複》oboes、【分節】o・boe
【名】 オーボエ、オーボエ音栓、オーボエ奏者◆【略】Ob.


 チューニングの音が好き。
 そう言ったら、オーボエの澤田くんは「人の苦労も知らないで」と眉間に皺を作った。
 まあね。苦労はわかるよ。
 一番乗りで吹かなきゃいけないんだもんね。

 練習であれ本番であれ、合奏を前にして行われるチューニングは、一種の儀式だと思う。
 これから合わせますよ。準備はいいですか。
 そこにいる楽団員が一つにまとまるための、儀式。

 ペー、っていうオーボエの音からはじまり(そんなこと言ったらまた澤田くんの眉間の皺を深くするだけだから言わない)、コンサートミストレスの由紀先輩がそれを引き継いで、そこから弦、木管、金管、と音が広がっていく。
 たまには私もティンパニの皮を軽く震わせて参加してみる。(淋しがりやなので)

 そもそもあの愛嬌のある音色のオーボエがトップバッターに選ばれた理由は、最も音程の調整が難しい楽器でどうしても音がとれないのでそれに他の楽器が合わせてあげるしかなかったのだ、と誰かに聞いたことがある。
 そう考えてみると吹き方も、クラリネットやフルートと比べて、申し訳なさそうに吹いているように見えなくも無い。
 一見華やかそうなポジションでありながら、オーボエの人たちがどことなく控えめなのはそういう背景があるから?──なわけないか。
 真偽は定かではないが、オーボエ奏者は難しさのために禿げてしまう確率が高いとかで、オーボエの男性陣は内心それを恐れているらしい。
 フルートの女の子たちに、近頃生え際が……、とからかわれる澤田くんの姿を見ていると、難しさのためというよりは、いろいろと周りに気を遣いすぎるからではないか、と思う。

 オーボエというと一般的に有名なのはチャルメラの音色だけど、ああいうもの悲しい、泣き笑いしてるみたいな感じがオーボエにはよく似合う。


photo:
オーボエ オーボア



 午後のひと時

本棚
 オケの練習は放課後、午後4時半から。
 時間割や休講の都合で待ち時間ができるのはよくあることだ。
 新入生の頃に先輩に教えてもらって以来、時間をつぶすのに気に入っている場所は、図書館の視聴覚室だ。
 そこにはCDやDVDが各種取り揃えられていて、おまけに一人一つずつ机(要するに再生デッキ)が割り当てられるから、そのスペースの中で音楽を聴きながら自分の好きなことができる。
 先輩に教えてもらったくらいだから当然のことながら、うちの楽団員によく遭遇するスポットの一つでもある。
 今日も、割り当てられた席に行ったら、お隣に見知った方がいた。
 バイオリンの三島先輩だ。
 熱心にノートに書きつけていて、私の存在にも気付かないようだ。
 お邪魔しては悪いので、黙って座ってヘッドホンをセットした。

 時間がたっぷりあるので次の演奏会の選曲に上がっていた「カルメン」の劇場版をDVDで鑑賞する。
 「闘牛士のテーマ」やら「ハバネラ」やら有名な曲ばかりなので、それだけでも意外と楽しい。
 それにしてもあっちの人の恋愛って濃いよなあ、と思いつつ、昼食後の眠気に襲われて、中盤で本格的に顔を伏せて居眠りをした。

 目が覚めて何気なく周りの様子を伺うと、少し離れた席に高津先輩を発見した。
 何か真剣に手先を使って作業している。
 じっと目を凝らすと、どうもミサンガを作っているらしいことがわかった。
 こないだコジマが言ってたのはホントだったんだ。
 ついに現場を見てしまった。後で報告しよっと。

 巻き戻して続きを見た。
 ちょうど全部終わったところで時計が4時を回った。
 そろそろ移動して飲み物でも買って待っててもいいか。
 DVDを取り出して立ち上がったら、隣の三島先輩が私に気付いた。
「こんにちは」
「あれー。気付かなかったよ」
「すごくマジメに勉強されてたんで、声かけちゃ悪いと思って」
「いやー、そう言われると困るんだけど、これJRの時刻表調べてただけなんだよね」
 三島先輩はものすごく恥ずかしそうに頭をかいた。
「夏の旅行の計画してたの」
「あっ、そうなんですかー」
 時刻表にそんなに真剣になれるのも珍しい。

「あ、なんだ。お前らもいたの」
DVDとヘッドホンを返しにカウンターに向かったら、クラリネットの加藤先輩にばったり会った。
「あー、こんにちは」
「お前何借りたの?」
「カルメン。今度やるかもしれないと思ってちょっと予習を」
「うげ。なんでクラシックなんか聴いてんだよ。信じらんねぇ」
「えー」
 信じらんねぇ、って仮にもオーケストラやってるわけだし、そんなに変なことでもないんじゃ?
「先輩は何借りたんですか?」
 私は加藤先輩の手元を見た。
「“10分間クッキング”? お料理ですか?」
「そうだよ」
「へぇー。こういうのもあるんだ。おもしろかったですか?」
「うまそうでさー。明日やってみっかな」
 加藤先輩のふっくらした頬の丸みをつくづく眺めながら、内心、こっちの方が信じらんないって感じなんだけど、と首をかしげた。



 女王のピラミッド

バイオリン
Violin
【レベル】1、【発音】va`iэli'n、【@】バイオリン、【変化】《複》violins、【分節】vi・o・lin
【名】 バイオリン(奏者{そうしゃ})


 名は体をあらわす、というのに似て、楽器と人のイメージは不思議とリンクする。
 楽器が人を選ぶのか、人が楽器を選ぶのか。
 たまには「この人がこの楽器?」というギャップもあるけど、大抵は何かしら「納得!」という部分をみんな持っている。

 オーケストラの花形と言ったらやっぱりヴァイオリン。
 打楽器の登場しない曲は数あれど、ヴァイオリンの登場しない曲は少ない。
 中でも第1ヴァイオリンのトップ奏者はコンサートマスターといって、そのオーケストラの言わば顔となる。
 音楽を聴きに来たお客さんが唯一一個人として認識するのは、(他の楽器に特別なソロが無い限り)指揮者とコンサートマスターだけのような気がする。

 この楽団のコンサートマスターは女性なので、コンサートミストレス、と言う。
 私がコンサートミストレスを見たのはこの楽団がはじめてだし、女性の場合そういういい方になるということさえ知らなかった。(もっともクラシックなんてまともに聴きはじめたのはこの楽団に入ってからなので、サンプルは非常に少ない)
 由紀先輩は、華やかなヴァイオリンそのものの人。ザ・ヴァイオリン。
 3歳からはじめたというヴァイオリンの腕前は、私のような素人が見ても構え方だけでただならぬものとわかる。
 目がぱっちりとした美人で、細くて華奢な体つきなのに弓の運びはシャープで力強い。その姿には同性の私でも見とれてしまう。
 楽器を持たない時は特別な何かがあるようには見えないのに、ステージに立つ時はみんなと同じ黒い服を着ていても華があって、明らかに特別なオーラを発している。
 ちょっと長めのソロなんてあろうものなら、由紀先輩のソロリサイタルにさえ見えてしまう。
 由紀先輩が弾くのはヴァイオリン以外にありえない。

 あんな風に胸を張って堂々と楽団の頂点に立つことができるのは、並み居るヴァイオリンの中でも選ばれた一人だけ。
 私の中のイメージでは、ヴァイオリンは女王と働き蜂。
 女王か、さもなくば働き蜂か。その差は大きい。
 努力してどうにかなるとかそういうものじゃなく、生まれ持っての才覚と実力と巡り合わせが全てを決する。
 トップアイドルになるか、普通の芸能人で終わるか、そんな感じ。
 そう考えると、女王に従い一糸乱れぬ働きを見せる彼らの背中がけなげに見えてくる。
 その働き蜂も、それぞれの実力や立場でちゃんと席が決まっているようだ。
 指揮者に一番近い最前列に座るのは実力者であることとか、二人で並んで共有する譜面をめくるのは、客席から見て内側に座っている人が請け負うのが暗黙のルールだとか。
 実は細かい階層に分かれたピラミッド社会なのだ。
 優雅に見えて結構厳しい世界だ。

 彼らと違って曲中に譜めくりが必要なことなどほとんどなく、手持ち無沙汰な待ち時間が断然長い打楽器は、そんなどうでもいいことを考えながら他の楽器を眺めている。
 ヴァイオリンが趣味って言えるなんてかっこよくていいなあ、と憧れはするけれど、こんな風に一番隅っこに下がって全体を観察している方がやっぱり私には合ってる、と思う。



 謎用語辞典

 どこの世界でもそうだけど、初めて入る世界にはそこにしかない言葉、というものがあって、遭遇すると少なからず戸惑う。
 オーケストラにもそんな謎の言葉がたくさんあり、しかも誰も何の疑問も持たずに使う。
 私が首を傾げたり、おもしろいと思った言葉を挙げてみる。

「チャイゴ」
 チャイコフスキーの交響曲第5番の略称。チャイ5。
 学生の場合、「今日はチャイゴをやる」というと、中国語(チャイ語)と混同し、混乱が生じる。
 ちなみにチャイコフスキー自体の略称は、「チャイコ」。紛らわしい。
 こういった略語はかなりおもしろい。(これらの言葉はこの楽団固有の言葉かもしれない。他の楽団では別な言葉を使っている?)
 ベートーベンだと、「べト1」(交響曲第1番)とか。(音の感じが汚い)
 ドヴォルザークだと、「ドヴォ7」(交響曲第7番)とか。(田舎っぽい)
 ブラームスだと、「ブラ1」(交響曲第1番)。(一般の人は、ブラッド・ピットか下着を想像しそう)
 「第9」とか「運命」とか「未完成」とか、一般的に有名な名称がある場合にはあまり使わないようだ。
 バッハやモーツァルトのように略しにくい作曲家には使わないかもしれない。

「ゲーセン」
 G線。弦楽器の弦の一つ。弦楽器の人はよく使うだろうけど、私には初耳だった言葉。
 弦楽器の男の子が「ゲーセンを買いに行く」と言った時、「ゲームセンターで何を?」と聞き返して冷ややかな視線を向けられた。
 ちなみに、ヴァイオリンにはE線(エーセン)、A線(アーセン)、D線(デーセン)、G線(ゲーセン)と4本の弦がある。
 バッハの「G線上のアリア」は、「ゲーセンジョウノアリア」なのだそうだ。
 曲名だけだとあんまりきれいに聞こえない。

「パーカス」
 パーカッション(打楽器)の略称。
 これは他の楽団でも使っていると思うし、自分たちでも名乗っている。
 それにしても、もっと頭のよさそうな名前はないもんだろうか。

「ゲネプロ」
 本番前の通しリハーサルのこと。ドイツ語の「Generalprobe(ゲネラルプローベ)」の略称。
 たぶん私がものを知らなすぎただけ。
 「11時からゲネプロです」といきなり言われても、「ゲネプロってなんですか?」とはさすがに聞けず、なすがままやってみて理解した言葉。
 当たり前だけど、プロゴルファーがあらわれるわけじゃなかった。



 ドレスコード

服 この楽団では、夏と冬で女性のステージ衣装が違う。
 夏は白いブラウス、ボトムスは黒。冬は上下とも、黒。靴は黒のパンプス。
 おそらく夏は真っ黒だと暑苦しいからそういう選択をしたのだと思うけど、演奏会の写真を見る時に女性の服装を見れば季節の判別がつくのが便利だ。

 ほとんどの人は例のひきずりそうなほど裾の長いスカートを着用する。
 色は決まっていても形に規定はないため、スカートにもいろいろある。
 ウェストから裾までまっすぐなスレンダーなものとか、ワイヤーが入って裾の広がったものとか(これを着用していたのは由紀先輩だけなので、コンミスの特権だったのかもしれない)、チューリップを逆さにしたように裾だけが広がったマーメイドタイプとか。

 曲中に立ったり座ったり移動したり、が多い打楽器だけは、代々先輩からのアドバイスで動きがとりやすいようにパンツを選ぶことが多い。
 確かに本番中に慣れないパンプスで歩いて裾を踏んづけて音でも立てたら一大事なので、私も黒のパンツを愛用していた。
 パンツだと普段も使えて実用的なのがお得だ。
 本番後に楽器を急いで片付けてトラックに搬入しなくてはならないため、万が一楽屋に戻る時間がなくても着替えずにそのまま帰れる、という保険にもなって安心できた。
 坂井先輩はプログラムと担当楽器によって服を選んでいて、メインの曲でティンパニを演奏する時にはスカートにしていた。曲中に靴を脱いでいられるからだ。
 私自身、ティンパニの高めの椅子に長時間腰掛けていてヒールをひっかけてつんのめりそうになったことがあり、それはナイスアイディアだと感服したけど、そのために今更スカートを買うのも気が引けるので未だに試してみたことがない。
 それから私は、お守りとして、真珠のピアスとおばあちゃんの形見の真珠のネックレスを必ず着ける。結構縁起をかつぐ方だ。

 演奏会の前になると、女性陣は必ず自分のスカートの試着をする。
 年に2回の演奏会は、年頃の女の子たちにとって「ウェストチェック」のタイミングでもある。
 ウェストはゴムでも伸びる素材でもないので、同じ体型がキープできなければ、ボタンの位置を変えたりして加工するかサイズの違うものを新たに購入するしかない。
 冗談めかして笑って「やばい、ちょっときつくなってたよ」とか言いながら、内心かなりショックを受けていたりする。複雑な女心が見られる時期でもある。

 男性は、夏でも冬でも、黒の上下に白いネクタイ。
 彼らは打楽器のパンツ以上に実用的で、ブラックスーツを使うので、学生なのに冠婚葬祭に困らない。
 本番真近の楽屋は、まるで結婚式直前の待合室のようにも見える。
 いつもTシャツにジーンズとかかなり適当な服を着ているのに、一人残らずきっちりよそいきの格好に変わる。
 特に男性陣は、同じ服装であるがゆえに、普段以上に見た目の年齢差がはっきりしてしまう。
 同じ学年の男の子二人に、「花婿と、花嫁の父、って感じだね」と率直な感想を述べたら、「花嫁の父だとォ?」と一人に首をしめられた。ごめん。



 ヘアスタイル

 演奏会に出演する際の指定のヘアスタイルはない。
 中学校の校則のように、肩に触れる長さの場合は二つに分けて三つ編みにする、とか、黒いリボンを使用する、とかそんなきまりごとは一切ない。(他の楽団にはあるかもしれないが)
 ただし、男性は黒い式服、女性は黒と白で統一、という服装のきまりがある以上、世間一般の常識として、それに合わないことは通常しないものである。
 そもそもクラシック音楽は紳士淑女の音楽なのだ。
 私の知る限りでは、演奏会当日に明らかに違和感のある髪型をしていた団員はおらず、皆至って常識的だったが、2度ほど髪型のことで驚いたことがある。
 1度目は、ある男の子が自ら髪を切りあまりにも刈上げ過ぎていた時。
 ステージに立つ前日にわざわざ自分で髪を切って失敗する、ということのできる勇者はなかなかいないものである。
 2度目は、まさに本番中。
 ある曲でティンパニを叩いていた私はオーケストラの一番後ろの一番高い位置に陣取っていた。
 長い休みの合間に指揮者の方に目を向けた瞬間、その対角線上にいたバイオリンのある先輩の後姿に釘付けになった。
 髪を長めに伸ばしていた男の先輩だったが、この日の髪型は編込みだった。
 そういえば、本番前にバイオリンの女の先輩たちがその先輩を囲んでなにやら楽しそうに騒いでた気がする。
 思わずニヤリと笑ってしまいそうになり、あわてて口元を引き締めた。
 危ないところだった。



 指揮者の歌

 故・朝比奈隆氏の指揮による演奏の映像を見た時、「あ、この人も歌ってる!」と思わずニヤニヤしてしまった。
 初めての定期演奏会の時、出番がアンコールだけだった私は、楽屋で他の1年生部員とおしゃべりしたり、モニターを眺めて聞こえてくる演奏に耳を傾けたりして時間を過ごし、それにも飽きた頃、こっそりと舞台裏に様子を身に出かけた。
 メインの交響曲がはじまっていた。
 曲の盛り上がりと共に、何かが聞こえてくる。
 明らかに楽器の音ではない。
 耳を澄ませてもわからないので、反響板の隙間からステージを覗き見ると、指揮者の先生が好調に指揮棒を振り回しながら時折口を動かすのが見えた。
 あわてて私は楽屋に戻って、同じく降り番のトロンボーンの先輩にそっと聞いてみた。
「先生、歌ってますよ。舞台裏まで聞こえたんですけど、あれっていつもなんですか?」
「そうだよ。いつも」
 先輩は別段驚くこともなく、事もなげに答えた。
「今日の演奏、録音してるんですよね?」
「いつもテープに先生の声が入ってるんだよ。今度聞いてごらん」
 後日確認したら、先輩の言葉どおりしっかりとテープに先生の歌(というよりうなり声)が入っていた。
 私が卒業するまでに参加した全ての演奏会のテープのどこかしらに先生の歌がちりばめられている。
 はじめの頃はテープに残るほど大声を出すなんて客席にも相当聴こえてるに違いない、と奇異なことのように思っていたけれど、今ではそれもこの楽団の演奏の一部だと思っている。
 歌が飛び出すということはそれだけ深くその曲の世界に入り込んでいるということだし、曲に対する想いがあふれてのことだと思うから。





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